なぽれぼ

ナポレオンとフランス革命について色々

ウルムザー

Wurmser00.jpgナポレオン 獅子の時代 長谷川哲也ランペルール コーエー


ダゴベルト=シギスムント・ウルムザー Würmser,Dagobert Sigismond(1724-1797)

オーストリアの将軍。1724年、当時仏領だったストラスブールで、古くからのアルザス貴族の家に生まれた。
1745年にフランス陸軍に入ったが、七年戦争中の1762年にオーストリア陸軍に移った。既に熟練のユサール指揮官として名を上げていたため、間もなく准将となった。
1775年には連隊所有者となり、1778年には少将に昇進、バイエルン継承戦争でも勇名を馳せ、功績によりヨーゼフ2世からマリア・テレジア指揮官十字章を贈られた。
1793年、アルザスからフランス軍を追い出し、マインツ攻囲に参加した。10月13日ヴィセンベルクで勝利、翌1794年にはマリア・テレジア大十字章を与えられた。
1795年はライン上流の部隊を指揮し、前半にプロイセンが対仏同盟から離脱すると守勢を強いられたが、ウルムザーは再び攻勢に転じ、11月にマンハイムを占領した。
1796年、陸軍元帥に昇進したウルムザーは、6月、快進撃するボナパルトに対応するためライン方面からイタリアの前線へ転任した。
フランス軍によるマントヴァの攻囲を解き、ロンバルディアを再奪取するために5万の軍勢を投入し、ウルムザー隊とカスダノヴィッチ隊、予備隊とで軍を三つに分け南下を開始した。
しかし8月5日にカスティリオーネで敗北、再度の進攻も9月8日バッサーノで敗北し頓挫、最終的には救援するはずのマントヴァに自身も逃げ込み、包囲されることになった。
1797年2月2日、フランス軍に降伏しマントヴァを退去。引退はせず、ハンガリーでの指揮権を与えられたが、篭城で健康を害し、同年の夏にウィーンで死んだ。

アルヴィンチ

Alvintzi00.jpgナポレオン 獅子の時代 長谷川哲也ランペルール コーエー

ヨーゼフ・アルヴィンチ Alvintzi,Josef(1735-1810)

1735年にトランシルバニアで生を受けた。
14歳で士官候補生として軍に入り、1753年には大尉に昇進。
七年戦争では擲弾兵中隊を率い、特にトルガウで目覚しい働きを見せ昇進した。
終戦時にはラシ将軍の新軍規を軍隊中に実施するために広く働いた。
1774年、大佐に昇進し第19歩兵連隊を指揮、バイエルン継承戦争でも陣頭に立って勇戦した。
1779年にはボヘミアプロイセン軍の指揮官の一人、ヘッセン方伯を捕らえ、これにより准将に昇進、マリア・テレジア騎士章を授かった。
ラウドンの下で対トルコ戦争に参加したが、ベオグラード奪取の際に与えられた任務に失敗した。
1790年、少将に昇進し、ブラバンの反乱鎮圧のためにオランダに向かったが、落馬による負傷で辞職を余儀なくされた。
1792年に陸軍に復帰、師団長となる。
1793年のネールウィンデンの戦いでは、兵の混乱を収め要地を奪取、この功によりマリア・テレジア指揮官十字章を授かった。
ヨーク公指揮下のイギリス軍を支援する部隊の指揮をとり、マロワールで負傷するまでにランドルシーとフルリュースで戦った。
回復後は大将に昇進、1794年6月にオレンジ公を助けシャルルロワの解放に貢献し、マリア・テレジア大十字章を授かった。
その後上ライン軍の指揮を少し執ったが、1795年に宮廷戦争評議会の委員になるようウィーンに召還された。
1796年、イタリアを越えて進むフランス軍の脅威に、チロル民兵を組織し対抗した後、ナポレオンの攻囲下にあるマントヴァを救う任務を課せられた。
アルヴンチの軍はわずかな古参将校と新兵で主に構成されたが、1796年11月15日から17日のアルコレで敗北するまで、最初はカルディエロで、次にバッサーノで小さな勝利を得た。
健康状態の悪化にもかかわらず、軍を再編成し再挑戦したが、1797年1月にリヴォリで最終的な敗北を喫した。
その後、アルヴィンチはハンガリー軍司令官に任命され、帝国顧問となり、1798年の新装備の導入を指示した。
1808年に陸軍元帥に昇進。
その後も遅々とした軍制改革をするオーストリア軍の中で影響力を持ち続けたが、1810年にブダで卒中のため死去。
生前の希望通り、彼と軍務を共にした者達の眠る軍人墓地に埋葬された。

ドッペ

Doppet00.jpgナポレオン 獅子の時代 長谷川哲也青年ナポレオン 長谷川哲也


フランソワ=アメデ・ドッペ Doppet,Francois Amédée(1753-99)

革命期に活躍したジャコバン派の将軍。
1753年3月16日、サルディニア王国サヴォワ(Savoie)公国領のシャンベリー(Chambéry)に生まれる。
フランスに出て1770年に騎兵科に入隊、翌年フランス衛兵隊(Gardes Francaises)に移る。
除隊後、トリノで医学を勉強し、革命が起こると1790年にグルノーブルで国民衛兵の下士官(NCO)になった。
18世紀に入って、サヴォワにもルソーやヴォルテールをはじめとした啓蒙思想が広まってきていたが、特に革命思想の伝播にドッペは功績があった。
1792年春、アロブロージュ(Allobroges)・クラブという政治団体をパリに設立。8月には民兵団を組織。併合を望むサヴォワの声をパリで広めた。
1792年11月27日、国民公会は、サヴォワ国民議会の要求に応え、サヴォワのフランスへの統合を決定。同地はモン・ブラン県となる。
民兵団もフランス軍編入され、ドッペは中佐(大隊指揮官)に選出された。
また、1793年には、様々な政治任用を経て、旅団長に昇進した。
同年アルプス方面軍での軍務に就き、9月、リヨンに赴いていたケレルマン(アルプス方面軍司令官)が戻ってくると、師団長となったドッペが代わってリヨンに向かった。
10月、ドッペは、王党派の反乱からリヨンを奪還し、11月にはツーロン包囲攻略を遂行するため、カルトーに代わり指揮官となったが、一週間ほどで転任となった(ボナパルトの活動によるものとの説もある)。
ドッペは東部ピレネー軍の指揮権を与えられたが、冬季作戦で病気になり、療養のため陣を離れた(余談だが、この後任はトゥーロンの時と同じくデュゴミエが就いた。彼は1794年に戦死)。
1794年に師団長としてピレネー山脈の軍へ戻ったが、1795年に解任され、2年後の1797年に軍から引退するまで、モーゼルとボージュ地域での新兵補充の任についた。
1798年に五百人会のジャコバン派が躍進した改選で議員となるが、フロレアル22日のクーデタで当選を無効とされ、以後、政界に入ろうと試みることもあきらめた。
1799年4月26日、死去。

漫画『ナポレオン 獅子の時代』では、トゥーロンから転任するのではなく、マルモンによって暗殺されている。
同作者の漫画『青年ナポレオン』では、司令官ではなくマルモンの戦友としてドッペという兵士が登場し、スペイン兵に捕まり晒し者にされ、ボナパルトに「どうせ助からん、苦しませるな」と命令されたマルモンの狙撃によって死亡している。
シャンベリー(Chambery):かつてのサヴォワ公国の首都、現フランス・サヴォワ県の県庁所在地。

カルトー

Carteaux00.jpgナポレオン 獅子の時代 長谷川哲也青年ナポレオン 長谷川哲也

ジャン=フランソワ・カルトー Carteaux,Jean Francois(1751-1813)

フランス革命中に数多く存在した、相応の軍事知識を持たずに高位に昇った将軍の一人である。
カルトーは1751年1月31日、オート・ソーヌ(Haute-Saone)県グーエンナン(Gouhenans)に生まれた。
旧制度下、1776年から1779年まで歩兵および竜騎兵としての軍務についた後、壁画家になった。
特にルイ16世の絵を描き、1792年7月15日には、国王から聖ルイ十字勲章(the Cross of the Order of Saint Louis)を授かっている。
1789年には、ラファイエットの副官を務め、その後さまざまな幕僚職につき、大佐まで昇進。
1793年7月にプロヴァンスの反乱を鎮圧し、旅団長に昇進し、8月25日に連邦主義者からマルセイユを奪還、同月、師団長に昇進した。
同年9月、彼は、南フランスで、連邦主義者および王党派に手引きされたイギリス・スペイン軍が占拠していた、トゥーロンの反乱に対する司令官に任命された。
カルトーはこの三ヶ月余りで三階級昇進したわけだが、この手のスピード昇進は、革命期にはよくあったことである。
逆に、一度の敗戦で軍職を剥奪され、裁判で死刑を宣告されることも少なくなかった。
9月7日、オリウールの村での小競り合いで、彼の砲兵指揮官ドマルタン大尉が重傷を負うと、カルトーは派遣議員サリセティとガスパランに「才能の豊かな傑出した人物」を送るように要求した。
サリセティが推薦した砲兵将校ボナパルト大尉は、トゥーロンを直接叩くのではなく、岬から敵艦隊を砲撃し撤退に追い込むという自分の作戦案の有効性を訴えたが、カルトーにはまったく理解できず、その軍事知識の欠如が明らかになった。
ブーリエンヌは、カルトーは軍事に関してなにもわかっていない素人だったと記しており、カルトー夫人でさえ、「彼(ボナパルト)の好きにやらせなさい、彼の方があなたより軍事に詳しく、あなたの助言などまったく必要としないのですから」と、ボナパルトの側に立っている。
ボナパルトは自らの作戦案の詳細を添え、無能なカルトーの更迭を繰り返し政府に要求した。
10月23日、カルトーはイタリア方面軍へ転任させられ、今度は直ぐにアルプス方面軍へ遷された。
そこで彼は軍職を剥奪され、裁判にかけられ、投獄された(1793年12月から翌年8月まで)が、幸運にもギロチンや銃殺はまぬがれた。
テルミドールのクーデター後釈放され、1794年11月、シェルブール沿岸のオッシュ麾下の軍に統合、共和暦4年ヴァンデミエール13日(1795年10月5日)の王党派の蜂起の際に、国民公会側としてわずかに関与した。
ボナパルトの統領政府時代には1801年から1804年まで全国宝くじの管理運営を任せられ、以後も1804年から翌年までのピオンビーノ公国(Principality of Piombino,1803-1805)の総督など、いくつかの公職につく。
1805年にはフランスに戻り、1810年を最後に全ての公職から退き、1813年4月12日にパリで死去した。
ナポレオンはセント・ヘレナで彼をこのように評している。
"inconceivable ignorance"(超訳:ぶっちゃけありえないくらいの馬鹿だった)

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カルトーの描いたルイ16世
現在もヴェルサイユに展示されている

ルクレール

François Joseph Kinson作ナポレオン 獅子の時代 長谷川哲也

シャルル=ヴィクトール=エマニュエル・ルクレール Leclerc,Charles Victor Emmanuel(1772-1802)

1772年、ポントワーズ(Pontoise)に生まれた。
1791年、彼はセーヌ・エ・オワーズ(Seine-et-Oise)県の歩兵大隊に志願兵として参加し、同年中尉に選出され、次の年に騎兵科に転任するまで、ライン下流で軍務に就いた。
1793年、イタリアで昇進し、ラポワプ(Lapoype)将軍指揮下の師団で参謀長となり、ナポレオン・ボナパルトと巡り合うトゥーロン攻略戦まではその任にあった。
トゥーロン以後は、アルデンヌ、アルプス、そしてもう一度イタリアへ赴き、ボナパルトのイタリア遠征に参加。カスティリョーネ(Castiglione)およびリヴォリ(Rivoli)で戦う。
この間の働きで有能な軍人であることを証明し、また資産家(小麦粉商人の跡取り)であることから、ポリーヌ・ボナパルトの結婚相手としてボナパルト家に認められるようになる。
1797年4月に彼はレオーベン(Leoben)予備交渉の協定正文と戦利品(鹵獲したオーストリアの軍旗)をパリへ運ぶ任を与えられた。
ルクレールは、同年5月、旅団長に昇進。6月14日にポリーヌ・ボナパルトと結婚し、ナポレオンの義弟となった。
イタリアで臨時の参謀長としてわずかな期間務めた後、1798年のはじめにはローマで勤務した。
11月、アイルランド遠征軍の参謀長に任命され、次いでイギリス遠征軍で同じポストに就いた。
1799年8月26日に、彼は師団長になり、さらにブリュメールのクーデタで彼の義兄(ナポレオン)の成功を助けた。
その後フランス西部でブリュヌ、ラインでルクルブ(Lecourbe)の下で勤め、モロー指揮下のライン軍へ移された。
この頃激しい落馬をし、一時的に彼の軍歴は中断された。しかしオシュスタッド(Hochstadt)の戦いに回復が間に合い、中央軍団の第二師団の指揮をとった。
1801年3月に、彼は、ポルトガルに対抗するスペインを援助するために派遣された軍団を指揮した。しかし10月に別の任務のためパリへ呼び戻された。
そこで、彼は12月14日にブレストから航海に出る、サント・ドミンゴ遠征軍の最高司令官に任命された。
(パオリのコルシカ同様、ハイチも自由フランスの一員となりながら、分離を企図しイギリスに接近していた)
ポリーヌと彼らの子供(Dermide(1798-1804))を同伴した約二万のフランス軍1802年2月、ハイチに上陸した。
6月7日、ルクレールの腹心ブリュネ将軍は夕餐の場で、引退していた元黒人奴隷のハイチ指導者トゥサン(Toussaint l'Ouverture)を拘束し、フランスの監獄へ送った(翌年獄死)。
フランス側の予想に反し、指導者を失いながらもハイチの抵抗運動は激化(奴隷制復活を察知されたため)。
その最中、ルクレール1802年11月2日、黄熱病により死去した。
ポリーヌとの間に生まれた子も、1804年にイタリアで死亡した。

パオリ

Richard Cosway作ナポレオン 獅子の時代 長谷川哲也青年ナポレオン 長谷川哲也

パスカル・パオリ Paoli,Pascal(1725-1807)、コルシカ独立運動指導者。

若き日のナポレオンにとっての英雄であり、コルシカ独立運動の象徴でもあるパスカル・パオリは、ジャチント(Giacinto)・パオリの末子として、1725年4月6日、コルシカ島モロザリア(Morosaglia)に生まれた。
コルシカは13世紀末からジェノヴァ支配下に置かれており、パオリの父は、1729年からの独立運動における指導者の一人だった。
パオリの愛国者としての性格は、父の「祖国コルシカの役に立つ人間となれ」という教育方針の影響を強く受けて形成されたと思われる。
1735年1月8日、コルシカ評議会が独立宣言を行う。
1739年、フランス軍の介入により、一家は亡命を余儀なくされ、パオリは亡命先ナポリ士官学校に入り、その後任官すると、コルシカの亡命者達で編制された連隊を率いた。
コルシカの独立運動は徐々に組織化され、ガフォリ(Gaffori,Gian pietro 1704-1753)を指導者として戦いを続けていたが、1753年、ガフォリはジェノヴァの放った刺客に暗殺される。
独立運動は複数の指導者によって受け継がれたが、パオリの兄クレメンテ(Clemente)の提案を受け、1755年7月15日、評議会はかつての運動を担ったジャシントの子であり、ナポリで軍事教育を受けたパスカル・パオリを指導者として迎えることを決定し、彼を中心に結束の強化を図った。
同年11月、1735年の憲法を修正し、民主主義国であることを宣言する。
パオリは最高評議会議長と軍の最高司令官を兼任し、統治機構の整備に腐心した。パオリがコルシカ全体を掌握したのは、1763年だと言われる。
コルシカは独自の政府、軍隊、通貨、司法機関を持ち、ジェノヴァ領有下にありながら、事実上二重政権のもとにおかれるようになった。
1764年8月31日、コルシカ出身の軍医ビュタフォコがルソーに手紙を書き、コルシカ憲法の草案を依頼したが、この執筆が終る前、1768年3月15日、ヴェルサイユ条約により、ジェノヴァはコルシカの施政権を200万リーヴルでフランスに売り渡した(後にジェノヴァ政府自体が消滅するので、フランスはコルシカの領有権を持つようになる)。
パオリはフランスに反抗したが、1769年5月9日、ポンテ=ノヴォの戦い(総司令官であるパオリは戦場に姿を現さなかった)に敗れ、6月13日、クレメンテや側近と共に二隻のフリゲート艦に守られイギリスに亡命。他の指導者達(数百人)もイギリスやイタリアに逃れた。
6月16日、評議会が正式に降伏を決定し、コルシカは名実ともにフランスの支配下におかれることとなった。
ルソー、ボズウェル、ヴォルテールらにより、コルシカはヨーロッパ知識人の注目の的となっていて、その独立運動の象徴であるパオリはイギリスに着くと国王に招かれるなど歓迎され、以後ロンドンで暮らした。
1789年、フランス革命が勃発すると、国民議会で「自由のために戦ったのちに島の征服の結果亡命した者」の帰国を認めるというミラボーの動議が承認され、パオリの帰国も可能となった。
12月の県設置令の制定により、コルシカ島はコルシカ県として革命フランスの一部となり、翌年7月にパオリの帰国は実現する。
9月、パオリはコルシカ県行政府首長に選出され、また国民衛兵隊総司令官に任命された。
だが、フランス国内でも混乱を生じた国有財産売却と僧侶基本法の実施をめぐって、コルシカ内の社会的対立が強まっていく。
これはこの二つの政策の支持者(受益者)、すなわちフランス派と、コルシカの伝統的生活に固執する島民大衆の対立といってよい。
1793年1月21日、ルイ十六世が処刑されると、王制擁護者であったパオリは怒りで身を震わせたといわれる。
革命フランスは国民開放の名の下に、国土防衛から領土拡大の戦争に向かっていたが、パオリはこの頃すでに、山岳派と執行評議会から非協力的とみなされていた。
税収入を国庫に納入していないこと、国民衛兵義勇軍を本土に送っていないことなどが理由として挙げられるが、2月23日、サルディニア攻略失敗がその不信を決定づけた。
ナポレオンの弟リュシアンが政治クラブ「共和国協会」でパオリ弾劾の演説を行い、この協会はパオリ即時罷免の請願書を国民公会に送った。
4月2日、エスキュディエ議員の動議に基づき公会はこれを取り上げ、パオリ逮捕令を出した。
逮捕令取り消しを求める交渉中に武力衝突が発生。
フランス軍との戦闘が開始されると、パオリはイギリスに支援を求め、ネルソン艦隊がバスティアやカルヴィを制圧。
1794年6月15日、コルシカ評議会はイギリス王ジョージ三世にコルシカの主権を委譲することを決定。イギリス・コルシカ王国となる。
副王ギルバート・エリオット卿により統治されるこの体制は二年ほど続いたが、パオリ自身は1795年10月にコルシカを退去させられていた。
1796年10月、コルシカは再びフランスの領有下におかれる。
パオリは再びロンドンに赴き、その「迫害された美徳のための最も安全で最も尊き避難所」で、合計47年に及ぶ亡命生活の最後を年金をもらいながら暮らし、1807年2月5日に死去した。
遺体はセント・パンクラス(St-Pancrace)の墓地に埋葬されたが、1889年、故郷コルシカ島のモロザリアに改葬された。
コルシカは現在もフランス領であり、フランス名コルス(Corse)島として、オート・コルス県(首都バスティア)と、コルス・デュ・シュド県(首都アジャクシオ)に分けられていて、独立を目指す過激派のテロが続いている。
※Pasqualeとの表記もあり

バグラチオン

George Dawe作ナポレオン 獅子の時代 長谷川哲也戦争と平和 岸田恋ランペルールー コーエー

ピョートル=イワノヴィッチ・バグラチオン Bagration,Peter Ivanovich(1765-1812)、大公。

ロシア軍の歴史の中でも有名な将軍、バグラチオンは伝統あるグルジア貴族の家系に生まれ、1782年にロシア軍に入った。
コーカサスで数年の軍務に就き、1788年、対トルコのオチャコフ(Ochakov)要塞包囲戦に参加。1792年までには大尉に昇進した。
次いで1794年のポーランドでの作戦行動中、バグラチオン少佐の働きはスヴォーロフ将軍の目にとまった。
1799年、そのスヴォーロフ指揮によるスイスとイタリアにおける作戦に少将として参加し、ブレーシア(Brescia)の占領でその名をあげた。
1805年、ウルムでのマック降伏を知ったクトゥーゾフは、ブクスホーデン軍との合流を図り、退却する。
クトゥーゾフを追撃するミュラ元帥のフランス軍を、バグラチオンは11月16日、ホラブルン(Hollabrunn)とシェングラーベン(Schöngraben)で少数(フランス軍の約五分の一)の兵力で足止めした。バグラチオンは手勢の半数を失ったが、クトゥーゾフら主力部隊を合流させることに成功する。
12月2日のアウステルリッツ三帝会戦で、バグラチオン中将はロシア・オーストリア連合軍右翼を率いて、ミュラとランヌが指揮するフランス軍左翼と戦う。
この戦いは連合軍の大敗だったのだが、シェングラーベンの英雄バグラチオン公爵として、彼の名誉は守られていた。
バグラチオンは以後、1807年6月10日のハイルスベルク(Heilsberg)および6月14日のフリートラント(Friedland)の会戦を揺るぎない勇猛さで戦い抜いたが、ロシア軍はフリートラントフランス軍に決定的敗北を喫する。
同年7月7日のティルジットの和約後は、1808年と1809年のスウェーデンとトルコに対する軍事行動に参加。
1808年のスウェーデン戦では、凍ったフィンランド湾を横断するという大胆な行軍によって、アランド諸島を占領。
また、1809年には、ラッソワ(Rassowa)とタタリツァ(Tataritza)の対トルコの戦いを指揮した。
1812年、ナポレオンのロシア遠征開始。
バグラチオンは西の第二軍団の司令官に任命された。
初期の退却戦(ロシア国内へ大陸軍を誘い込んだ)では、戦わず国土へ侵入されることの恥辱に震えたと言われる。
7月23日、バグラチオンはモギレフ(Moghilev)でダヴーに破れた。
その後、バルクラーイ・デ・トーリ指揮下の主力軍と合流し、9月7日、ボロディノの戦いで左翼を指揮した。
ロシア軍はボロディノから後退したが、フランス軍にとって決定的勝利とは言えなかった。
バグラチオンはこの戦闘中に足を負傷し、二週間ほど後の9月24日、感染症で死亡した。
軍の内外に大変な人気のあった彼の墓は、一代後のロシア皇帝ニコライ一世(アレクサンドル一世の年の離れた弟)によって、ボロディノの戦場跡に建てられた。